朝日新聞 > 〈熱闘甲子園への道4〉球児見守る「母」ここに (7/1)
http://www2.asahi.com/koshien/news/OSK201007010091.html青みを増した空が雲間からのぞく。6月19日。梅雨明けの沖縄に、熱闘甲子園のキャスター、長島三奈(42)はいた。「いよいよですね」。甲子園へつながる地方大会が全国で最初に開幕する南の島から、長島の夏も始まる。
今夏の沖縄大会開幕直前、選抜大会優勝の興南・島袋洋奨投手を取材する長島三奈さん(右)
長島さんがキャスターとなった98年の夏は、横浜の春夏連覇で幕を閉じた。写真は決勝で無安打無得点試合を達成し、喜ぶ松坂大輔投手と小山良男捕手
「熱闘」のキャスターは1981年の第1回放送で朝日放送のアナウンサー安部憲幸が務めて以来、共同制作する朝日放送とテレビ朝日の局アナが担当してきた。93~97年はナレーションのみだったり、タレントを日替わり起用したり、試行錯誤した。ミスター・プロ野球と呼ばれる長嶋茂雄の娘が番組の「顔」になったのは、98年のことだ。
同年2月、長野冬季五輪閉幕直前のプレスセンター。その夏の「熱闘」のチーフディレクターに決まっていた朝日放送の藤田和弥(46)が、長島にキャスターの仕事を打診した。テレビ朝日に記者として入社した長島は、報道番組に出るなど活躍の場を広げていた。五輪も開幕前から欧州を回るなど、精力的に取材。体調が悪くてもジャンプやスケート会場に熱心に足を運んだ。「三奈ちゃんはいつも『私は専門家じゃない。だから取材するしかない』って。この真摯(しんし)な気持ちは高校野球に合う」。藤田は考えた。
だが断られた。「高校野球は一度も取材経験がなく、不安だった。私にできるのかな、って」と長島。父も兄の一茂も甲子園に出ていない。中学時代には、兄が埼玉大会準決勝で敗れる姿を見て、観客席で泣いた。以来、甲子園は遠い存在となっていた。
あきらめきれない藤田は五輪後も、東京出張のたびに口説いた。5月末、テレビ朝日近くのホテルのラウンジ。藤田は「一回だけでもいい。何なら文書にして約束する」と紙ナプキンを手に取った。「わかりました」と長島。沖縄大会の開幕が迫っていた。
長島が高校野球に染まるのに、時間はかからない。6月、初取材で小山西(栃木)を訪れた。情景を今も、はっきり覚えているという。「ZARDの曲が流れるグラウンドで、部員が水をまいていた。遅れてやって来た先輩が、準備する後輩にお礼を言っていて
」。そして、感じた。「私の中に眠っていた長嶋家のDNAが目覚めました。『これだっ』て」
高校野球が仕事の中心になった。試合中は応援席には行かない。「両チームにエールを送りたくなる」からだ。夏が終わると秋の大会に足を運び、春を指折り待ち、また夏に心躍らせる。「私の場合、春夏秋冬と書いて『コウコウヤキュウ』と読みます」。かつて取材した球児を「息子」と呼び、彼らが進んだ大学や社会人の野球も気にかける。
「熱闘」は30年目。長島には12回目の夏が来た。「負けた選手を救う。ヒーローも取り上げる。選手を支える人にも目を配る。そんな『熱闘』らしい『熱闘』でありたい」。全国約17万人の高校球児を優しく見守る「母」が、ここにいる。敬称略、おわり
(山下弘展が担当しました)